年代 | 西暦 | |
安政2 | 1855 | 4月20日備中国庭瀬村川入に生まれる |
万延元 | 1860 | 父から四書五経の素読を受ける |
慶応元 | 1865 | 犬飼松窓の三餘塾に入り経学を修める |
明治元 | 1868 | 8月父が病死、翌年自宅で塾を開くが、間もなく倉敷に行く |
明治5 | 1872 | 小田県庁に勤務 |
明治8 | 1875 | 7月上京。湯島の共慣義塾に入学。翌年、慶応義塾へ転学 |
明治10 | 1877 | 郵便報知新聞の従軍記者として西南戦争に派遣され、「戦地直報」を発信 |
明治13 | 1880 | 慶應義塾を卒業直前に退学。8月「東海経済新報」を創刊 |
明治14 | 1881 | 7月統計院権少書記官に就任するが、10月大隈重信の下野とともに退く |
明治15 | 1882 | 4月立憲改進党の結成に参画。5月東京府会議員補欠選挙に当選 |
明治16 | 1883 | 4月「秋田日報」主筆として秋田に赴く。11月帰京して郵便報知新聞に復す |
明治18 | 1885 | 郵便報知新聞を辞し、朝野新聞に入社 |
明治23 | 1890 | 7月第1回衆議院議員選挙に岡山県第三区から立候補し当選(以後連続19回当選) |
明治27 | 1894 | 4月中国進歩党を組織 |
明治29 | 1896 | 3月進歩党を組織 |
明治31 | 1898 | 6月憲政党を組織。10月大隈内閣の文部大臣に就任。憲政党分裂後、憲政本党に属す |
明治36 | 1903 | 大石正巳と中国、朝鮮半島を訪問 |
明治40 | 1907 | 11月中国訪問(翌年1月帰国) |
明治43 | 1910 | 3月立憲国民党を組織 |
明治44 | 1911 | 孫文らの辛亥革命援助のため、中国に渡る |
大正2 | 1913 | 憲政擁護運動で尾崎行雄とともに先頭に立ち活動、「憲政の神様」と称される |
大正11 | 1922 | 11月革新倶楽部を組織 |
大正12 | 1923 | 9月第2次山本内閣の逓信大臣兼文部大臣に就任。関東大震災の復興に力を注ぐ |
大正13 | 1924 | 6月護憲三派内閣(加藤高明内閣)の逓信大臣に就任 |
大正14 | 1925 | 5月普通選挙法公布の後、革新倶楽部と政友会を合同させ、大臣及び議員を辞職。政友会長老に推される。7月補欠選挙で再選され、余儀なく受諾する |
昭和4 | 1929 | 6月中国の孫文移霊式に参列。10月政友会総裁に就任 |
昭和6 | 1931 | 12月内閣総理大臣(第29代)に任命され、犬養内閣を組閣 |
昭和7 | 1932 | 5月15日首相官邸で凶徒に襲われ、同日夜半死去 |