5・15事件で凶弾に倒れた「憲政の神」犬養毅(号 木堂)を顕彰する

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木 堂 と は

犬養木堂とは

犬養木堂の名前

 木堂の先祖は「犬養」「犬飼」の両方とも使っていたといいます。木堂が生まれた頃は「犬飼」を使っていましたが、木堂は、上京(1875)前後から「犬養」を使いだし、結局「犬養」にしました。
 「木堂(ぼくどう)」というのは、雅号です。孔子の『論語』から付けられ、名付けたのは栗本鋤雲です。

犬養木堂とは

  •  犬養毅 (号 木堂) は、 明治から昭和にかけて活躍した政治家で、 昭和6年 (1931) に第29代内閣総理大臣となり、 翌7年 (1932) 五・一五事件で海軍青年将校らの凶弾に倒れた人物である。
     木堂は、 安政2年 (1855) に備中国庭瀬村川入 (現:岡山市北区川入) の大庄屋の次男として生まれ、 明治8年 (1875) 20歳で上京。 上京後は郵便報知新聞に寄稿しながら、 慶應義塾で学ぶ。明治10年 (1877) には休学して、 従軍記者として西南戦争の戦地へ赴いている。明治13年(1880) 慶應義塾中退後、 「東海経済新報」 や 「秋田日報」 、 「朝野新聞」 などでジャーナリストとして活躍する。
     明治23年 (1890) 第一回衆議院議員選挙で岡山から出馬して当選、以後連続19回当選し、 政府に対抗する旗手として活躍。 大正初めごろの憲政擁護運動では、 先頭に立って活躍し 「憲政の神様」 と称される。また、 多くの国民の政治参加が必要との考えから、 納税要件を撤廃しようと普通選挙法の実現に力を注いだ。明治中ごろから、中国の孫文やベトナムのファン・ボイ・チャウなどアジアの人々と交流を持ち、 人脈を使って彼らを支援した。
     昭和6年 (1931) 12月、 内閣総理大臣となり、 犬養内閣を組閣。満州事変で悪化した中国との関係改善をしようと試みるが、 翌年5月15日、 首相官邸で海軍青年将校らの銃弾を受け、 夜半に死去した。その時の言葉とされる 「話せばわかる」 は、 議すること、 直接話すことを重視する木堂の姿勢を現すものとして今も伝えられている
     また、 書にすぐれ、 「木堂」 「木翁」 「白林遯叟」 などの号で揮毫された多くの書が残っている。
  • 政見発表する木堂 (大正13年)

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