5・15事件で凶弾に倒れた「憲政の神」犬養毅(号 木堂)を顕彰する

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木 堂 の 生 涯

木堂の生涯

岡山時代

  •  木堂は、 安政2年(1855)4月20日、 備中国庭瀬村字川入(現:岡山市北区川入)の大庄屋犬飼家(後に犬養と改める)において父 源左衛門、 母 嵯峨の次男として誕生。父は庄屋を務めるとともに儒学者でもあり、 木堂も5歳頃から漢学を、 10歳頃から犬飼松窓の三餘塾に入り経学(四書五経を研究する学問)を学び、 すぐれた才能を発揮したと謂う。明治元年(1868)13歳の時に父が病死。自宅門脇で塾を開くが、 松窓がこの頃、 倉敷の明倫館へ招聘されると、 倉敷の母方の縁戚の家から松窓の許に通った。東京で漢学を学ぼうと考えていた木堂は、 その資金を得るため、 明治5年(1872)17歳で小田県庁地券局(現:岡山県笠岡市)に勤務。ここで、 萬国公法(今の国際法にあたるもの)に接し、 洋学に魅了され、 上京して洋学を学びたいと考える。
  • 小田県庁時代 (後列中央)

上京、そして政治家へ

  •  明治8年(1875)、 親戚にお金を借りて20歳で上京。湯島の共慣義塾に入学、 翌年慶應義塾に転学。学費・生活費のため、「郵便報知新聞」に寄稿しながらの生活だった。明治10年(1877)22歳の時、慶應義塾を休学し、 郵便報知新聞の従軍記者として西南戦争の戦場に赴き、 戦地ルポ「戦地直報」を発信し名声を博す。その後、 郵便報知新聞と仲違いし、 明治13年(1880)に慶應義塾を中退、 8月に「東海経済新報」を創刊した。
     明治14年(1881)7月、 26歳の時、統計院権少書記官となるが、 同年10月大隈重信らとともに退官。翌年、 郵便報知新聞に戻り、有力記者となる。また、 この年東京府会議員補欠選挙に当選(明治23年まで改選毎に当選)。明治16年(1883)28歳の時、「秋田日報」の主筆として4月から11月まで秋田へ赴き、帰京後、郵便報知新聞に復するが、明治18年(1885)には同社を辞し、朝野新聞に入社した。
  • 従軍記者として

政治家として

  •  明治15年(1882)に立憲改進党の結成に参加、以後、中国進歩党、進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党、革新倶楽部、立憲政友会に所属。明治23年(1890)第一回衆議院議員選挙で岡山県第三区から出馬し当選、以後亡くなるまで連続19回当選し、日本の憲政の確立、藩閥の排除、普通選挙の実現に尽力するなど、政党政治の確立に貢献した。
     帝国議会開始当初は、 政府に対抗する旗手として活躍、 大正初めに起こった憲政擁護運動(閥族など特権階級が支配する政府に対し、憲法に則り、議会を尊重する政治を求めた運動)では先頭にたち、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称された。
     また、明治中頃から日本に亡命していた中国革命の父 孫文をはじめ、康有為、朝鮮の朴泳孝、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどアジア各地の人々と親交を持ち、人脈を使い彼らを支援をした。
     多くの国民の意見を政治に反映させるためには、選挙権拡張が必要との思いで活動していた木堂であるが、大正14年(1925)に普通選挙法が成立すると、所属の革新倶楽部を立憲政友会と合同させて政界引退を表明、議員を辞職。ところが、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が再び当選させ、彼らの懇請によりやむなく受諾するが、先頭に立って活躍することはなく、長野県富士見にある別荘 白林荘などで悠々自適に過ごした。
  • 憲政の神として活躍(右:木堂 左:尾崎行雄)

政友会総裁から内閣総理大臣

  •  昭和4年(1929)74歳の時、政友会総裁の田中義一が急死したため、国民の知名度が高かった木堂が政友会総裁に就任、一転して忙しい日々となる。この頃、昭和金融恐慌、世界恐慌などが起こり、日本経済は深刻な状況であった。また、昭和5年(1930)にはロンドン海軍軍縮条約の調印をめぐって、木堂所属の政友会が軍部とともに異議を唱え、統帥権干犯問題に発展した。翌年には、中国で満州事変、国内では十月事件などが起こり、社会情勢が不穏な中、12月、木堂は76歳で第29代内閣総理大臣となり、犬養内閣を発足。満州事変の収拾や経済不況、政界の綱紀粛正など、民衆の期待を背負って難局に当たるが、翌昭和7年(1932)5月15日、首相官邸において海軍青年将校らの凶弾に倒れた。
  • 総理大臣 犬養毅

5・15事件

  •  事件当日は日曜日であった。木堂は、政務から離れて首相官邸で過ごしていたが、午後5時半頃に海軍青年将校らが2班に分かれて侵入。官邸の廊下で彼らの一班と遭遇した木堂は、客間に導いて話を聞こうとしたが、後から合流した将校の号令により、頭部に銃弾を受けた。撃たれた直後はまだ意識があり、駆けつけたお手伝いに「話してきかせる」「彼らを呼んでくるように」と言ったという。これが後に「話せばわかる」の言葉になった。治療を受けていた木堂だが、その後、頭部に銃弾が残っていることが分かり、意識不明に陥り、そのまま夜半に亡くなってしまった。
     首相官邸で首相が殺されるという重大事件であったが、翌日から一年に及ぶ報道規制が行われ、後継の首相も政党からではなく、軍経験者となり、木堂の死で戦前の政党政治に終止符が打たれた。
  • 5/19首相官邸での葬儀

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